経済小説:橋の下からこんにちわ 【最終章 橋の下からこんにちわ】

橋の下からこんにちわ。中国人の張さんの家のゴミ捨て場を掃除している田中です。今日もダンボールが暖かい。

家を追い出されてから半年が経った。2028年も暮れである。

ホームレスの仕事は想像したほど苦労しなかった。日雇いをすればプレハブでシャワーを浴びる事ができるし、そのお金で飲みに行くこともできる。2ヶ月前からハローワークの小林さん紹介で、中国人の張さんというお金持ちの家のゴミ捨て場の掃除をしている。

張さんの家の敷地には、張さんの家で働く使用人の住宅もあり、マンションのようなゴミ捨て場があるのだ。私は月曜、火曜、木曜にそこへ趣き、収集業者へ溜まったゴミを出し、清掃しているのだ。収入は月に7万円。労働時間を考えると日雇いより割が良いし、日雇いより楽である。

張さんはとても良い人で、慈善的な側面でそうした仕事をハローワークを通じて募集しているのだ。
 

ヤスさんの訃報のあと、鈴木さん、石田さん、私の3人はそれぞれの道に進んでいる。

鈴木さんは実家の北海道の酪農を継ぐ事にし、北海道へ戻った。牛のしもの世話なんてしたくないと敬遠してきたそうだが、日雇いでそれ以上の現場を経験し、生きてる動物の世話の方がマシだと思ったそうだ。それに、父親もいいかげん高齢になり、後継探しが急務だったそうだ。

石田さんはベトナムにいる。ベトナム経済の発展により、日本や欧米のようなインテリアの家の需要が高まっているそうだ。例えば、これまでベトナムの住宅は壁はペンキで塗装するのが一般的だったが、今は日本の住宅のように壁紙を貼るのが流行っているらしい。現地にインテリアを作り込める職人が少ないため、石田さんのような日本人の内装職人が重宝されるらしい。
 
 

「田中さん、こんにちは! お元気ですか?」

この日、ハローワークの小林さんが私の元を訪ねて来てくれた。私は橋の下からヒョイっと顔を出し、答えた。

「あ、小林さん! こんにちは! こんな橋の下からすみません。」

「いえいえ、何をおっしゃいますか。」

「「ワハハハハハ」」

一緒に笑った。
 
 

「田中さん、今月の募集内容です。気になったものがあったらハローワークに連絡してください。」

「いつもありがとう。小林さん。」

「いえいえ、それよりも早くアパートを借りられるようになって、ここから出ましょうよ。張さんのところの仕事はどうですか?」

「本当にありがたい仕事です。張さんはよく食品や日用品をくれるんですよ。この前は美味しいハムをくれましたよ。張さんの家にはお歳暮がたくさん届くみたいで、おすそ分けです。」

「それは良かった。まだ寒くなりますから、お体には気をつけてください」

「ありがとう」
 

こうやって小林さんはハローワークの求人資料を持って来がてら、私の様子を見に来てくれるのだ。
 

私は張さんにもらったハムを頬張りながら、資料に目を通した。

最後のページ に移住を前提としたカンボジアでのワーキングホリデーが紹介されていた。2年働いて必要な条件を満たせばカンボジアでの永住権が取得できるそうだ。ただし渡航費や現地での仕事が落ち着くまでの宿泊費など、平均50万円ほどの予算が必要と書いてある。

そんな制度があるんだ という程度に私は思った。
 
 

年末を過ぎ、2029年を迎え、正月ムードが落ち着いたころ、親父の訃報連絡が来た。私は銭湯で風呂に入り、有り金をかき集め、深夜バスに乗って実家に向かった。張さんには弔辞という事で1週間の休みをもらった。
 

実家に帰るのは実に4年ぶりだ。もともとあまり実家には顔を出さなかったが、4年は最長だろう。

5日間ほど実家に泊まった。実家には弟の夫婦が暮らしている。弟は地元の地方公務員として働いている。こんな時代でも公務員は強い。弟によると終身雇用と年功序列は未だ健在だという。

私はIT企業を辞め今はホームレスをしている事を弟に伝えていない。もちろん両親にも伝えていなかった。東京で旗揚げすると言って、両親の反対を押し切って東京の大学に進学した手前、こんな状況になっているなんて言えなかった。すっかり落ちぶれ、見栄など気にしなくなった私だが、両親や弟だけには知られたくなかった。だから弟は私が今でもIT企業で働いていると思っている。

5日間、私の仕事に関する弟からの質問は適当にあしらった。
 

父の書いた遺書により、実家は弟が相続することとなった。当たり前だ。弟は家族で実家に住み、父や母を支えて来たのだ。これからも残された母の面倒を見ながら暮らしていく。
 

実家以外の資産として預金が200万円ほどあるそうで、分配については後日、弁護士も交えて決める事となった。預金の相続先について遺書で触れられていないので、恐らく母、弟、私の3人で分ける事になるそうだ。

後日、預金の分配はあっさりと決まった。母が100万、私と弟が50万円ずつ相続する事となった。
 

1ヶ月後、口座に振り込まれた臨時収入の50万円をどうしようか、私は考えていた。サラリーマンの頃の私ならおそらく見栄を張るために使っただろう。例えば高級腕時計を買っていたかもしれない。だが今の私にそんなものは要らない。贅沢をすると言ってもちょっと良い酒を買う程度である。

その時、ふと小林さんからもらった求人資料の事を思い出した。
 

(ふぅ、まだ、あった…)
 

かさばった荷物の中から資料を見つけ出し、私は最後のページ を開いた。カンボジアでのワーキングホリデーが紹介されていた記事だ。

(これって、年齢制限はあるのかな?)

最初に見たときは初期費用が50万円程度かかるという事で、眼中に無かったが、今、私の手元には50万円がある。そうなると興味が湧いて来たのだ。

(カンボジアか、、ヤスさんも住んでいた国だ。)
 

翌日、私はハローワークの小林さんの元を訪れた。
 

「これですか… ちょっと担当が違うので、今呼びますね!」
 

2ヶ月以上前にもらった資料だったので、もう応募が出来ないんじゃないかと心配だった。それに年齢制限の事も心配していた。

しかし、その心配は期待感に変わった。
 

「まだ申し込み出来ますし、年齢制限は特にありません。一応、60歳までを想定していますが、田中さんはまだ51歳なので大丈夫です。ただ、健康診断で基準をクリアする必要はあります。」

担当の女性は丁寧に色々と説明をしてくれた。カンボジア政府と日本政府が連携してこの制度が出来たらしい。申し込みはまだ少ないという。
 

いくつか事例を聞いて、私は、ヤスさんに話した事が実現できるのではないかと感じた。
 
 

>「そうですなぁ、出来ればゼロからやり直したいと思っているんですよ。まぁ、今がマイナスですがね。ハハハハハ。できる事なら過去を断ち切って、、見栄や世間の常識に振り回される事なく、自分のやりたい事に正直な人生を歩みたい ですかね、、」
 
 

私は賭けてみる事にした。
 
 

後日、作成した書類をハローワークに提出し、申し込みは完了した。

帰りに立ち飲み屋へ寄った。
 

カウンターで、たまに大将と話しながら飲んでいると、ふと肩をたたかれたような気がした。振り向いたが誰もいなかった。その時ふと、ヤスさんに貰った名刺の事を思い出した。私は財布の奥から名刺を取り出した。

その時、私にあるアイデアが浮かんだ。
 

(そうだ! もしカンボジアへ行く事ができたら、昔しヤスさんと一緒に働いていた人を探そう! そして、ヤスさんが幸せな最後を迎えられたこと、ヤスさんがカンボジアでの出来事をずっと悔いていたこと、ヤスさんが私のような多くの人間にとって励みになっていた事を伝えよう!)
 

それば私の出来る、ヤスさんへの最大の恩返しだと思った。
 
 

1ヶ月後、私のカンボジア行きが決まった。
 

橋の下を後にする前日、橋の下のホームレス仲間は私の門出を祝ってくれた。みんな、少ないお金の中から酒と食材を買い、鍋をやってくれた。立ち飲み屋の大将とハローワークの小林さんも来てくれた。まだ寒い3月の橋の下、みんなで味わう鍋と酒は最高だった。
 

それから数日後、

開花した桜に見送られながら私は日本をたった…
 
 
 
 
 

3年後、、、

54歳になった私はカンボジアで働いていた。プノンペンの外れの小さな街だ。
 

カンボジアでの暮らしは控えめに言って最高だ。

私は観光センターで日本語のガイドをし、学校で日本語のクラスを持ち、畑を耕して余った野菜を売り、友人と一緒に立ち上げたレストランでたまにコックをやり、バーテンダーもやり、暮らしている。自分のレストランで空き時間に飲む酒が最高だ。

カンボジアには活気があり、若者から年寄りまで生き生きとして見える。みんな一生懸命に働いている。素晴らしいのは自営業に寛容な文化だ。例えば日本で、自分の家庭菜園で美味い野菜が沢山できたからといって、それを家の前で売る人間はほとんどいないだろう。カンボジアの場合は売る方が多数派だ。そして個人が育てた野菜をみんな当たり前のように買っていく。そうやってみんな商売をする。

だから、カンボジアではしたい事がすぐにでき、商売になる。これが面白い。

私はレストランを共同経営しているが、もともとは軽いノリで始めた事だ。飲み仲間の朱さんと文さんと、「中国料理と韓国料理と日本料理を出す店を作ったら面白いんじゃないか」と話したのがきっかけである。朱さんは中国人で、文さんは韓国人だ。みんな私と同じくらいの歳で、私と同じタイミングでカンボジアへやって来た。会話は基本的に英語だが、最近はみんな相手の国の言語を少しずつ理解しつつある。そのうち、朱さんが日本語で話した事に私が中国語で答える日がくるはずだ。

ちなみにレストランの内装は、石田さんがわざわざベトナムからカンボジアへ来て、監督してくれた。
石田さんは今では、30代のベトナム人女性と結婚し、ベトナムで内装業の会社を経営している。
 

カンボジア人、いやカンボジアに住む外国人も含め、良い感じに適当で、無理をせずマイペースで、とても気楽である。
 

ヤスさんの元同僚との再会は2年前に果たした。もちろん全員ではないが、50人くらいと会った。今も定期的に集まっている。皆それぞれ違う人生を歩んでいて、一時期路頭に迷ったという者もいるが、みんなヤスさんの事を恩人だと言う。ヤスさんの名刺を見せると、ある者は歓喜し、ある者は涙を流した。

私はそのヤスさんの元同僚達に非常に世話になっている。今住んでいる家は元同僚のカンボジア人の親戚が持っている不動産で、持て余しているからと、相場よりも随分安い家賃で住まわせてもらっている。
 

カンボジアの家は日本よりもずっと安いが、もう借金をして買うような事はしないだろう。

カンボジアに来てから私は、出来るだけ物を持たない生活をしている。失業し、ホームレスを体験し、物に囲まれる豊さは本当の豊かさではないと価値観が変わった為だ。家であれ車であれ、みんなでシェアし、必要な時に必要な者が使えば良いのだ。私はヤスさんの元同僚に安く譲ってもらったホンダを愛用している。4万キロ走った120ccのバイクである。これが唯一と言える私の所有物だ。
 

世界は今、国と国の境界が曖昧になり、自分の目指すライフスタイルや自分の能力で住む国を決める時代に突入しようとしている。野心があり、能力に自信があり、整備された環境を好むものは日本のような20世紀からの先進国へ集まる。
物質的な豊かさより時間の自由やマイペースに生きる事に価値を置く、今の自分のような人間は、カンボジアのような国に集まる。

そういったシステム、私は良い事だと思う。
 
 
 

今日、社会人になった娘が私の元を訪ねてくれた。何回目かの訪問だ。
 

「お父さん、久しぶり、元気にしてた!? 相変わらず元気そうね!」

娘は嬉しそうな、しかし少し呆れたような顔で私に言った。
 

娘は大学を卒業して日本で銀行員として働いている。今の時代にあった物の買い方、人生設計の仕方を銀行員としてデザインしていく事が目標らしい。

息子は高校を卒業して料理人として修行をしている。私の失業で思春期に野菜炒めばかり食べさせられため、自分で旨い料理を作れるようになろうと思ったらしい。高校生の時から息子が家族の夕食を作っていたらしい。

「お母さん、最近、私もカンボジアへ行こうかしらって言ってるよ。今はお婆ちゃんが心配だから日本から出られないとも言ってるけどねー」
 

「ところで、お父さんって、色々仕事やってるけど、結局職業はなんなの?」

娘が笑いながら聞いて来た。
 

「そうだな、、うん、、、”スローライファー”かな。」
 

「なにそれ…」
 
 

その日から私は、自分のことを”スローライファー”と呼ぶ事にした。

私は今、ヤスさんの元同僚達とカンボジア発のバイクメーカーを立ち上げようとしている。皆んな元は自動車のエンジニア達だ。もう試作品の開発も進んでいる。

ブランド名は “ヤスノブ”

ヤスさんの名前だ。
 
 

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田中、54歳。

人生100年時代、彼の人生はまだ折り返したばかり。
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おわり(完)
 

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