経済小説:橋の下からこんにちわ 【第六章 正念場】

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住宅ローンの滞納で代弁返済まで進み、ローンの残債と遅延金の一括返済も難しい場合、一般的には競売の申し立てがされ、裁判所から競売開始決定通知書が届く。詐欺の請求ではなく、裁判所が発効する正式な通知だ。競売が成立した場合、期日までに家を出て行かなくてはならない。

ここでの問題は、日本の場合、競売が成立して家を出たとしても、競売価格が住宅ローンの残債と遅延金の支払い額に満たない場合、差分(オーバーローン)の支払い義務は債務者に残るということだろう。

つまり残債と遅延金の合計が3,100万円として、競売価格が2,100万円とすると、差分(オーバーローン)の1,000万円は家を追い出された債務者が支払わなければならない。どうしても難しい場合は自己破産の手続きをすることになる。債務者が自己破産すると返済請求はローン契約時に設定した連帯保証人に行く。

そして一般的に競売価格は相場よりも3割程度安くなる事が知られている。競売にかけられるような者が住んでいた物件と言う事で、購入リスクが高いと判断されているからだ。また、一般的な売却と違い家の補修や清掃などはされず、そのまま落札者に手渡されるため、落札者がそれらの対応をしなくてはならない。

とかく、競売で売却された場合、相場よりも安く売られるため、それでローンの残債と遅延金を払えない可能性は高くなる。

これを避ける方法として任意売却がある。これは住宅ローンの債権者である銀行に許可を得たうえで、買い手を債務者側で見つけて家を売る方法である。メリットは競売に比べて高く家を売れる可能性があることである。

マイホームを事実上失い失望している田中だが、ここからが正念場である。
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私は住宅ローンの問題を相談すべく、会社の労働組合が提供している無料の弁護士相談を活用した。もちろん初めてである。
ローンに追い込まれている私には、無料で弁護士に相談が出来るというのは非常にありがたいものだった。
 

「田中さん、貴方の場合は競売を避けて任意売却を試みるのが現時点で最良の選択だと思いますよ。」

弁護士は私にそう言った。家を失うことは同じだが、競売よりも任意売却の方が高く好条件で売れるケースが多いそうだ。その分、ローンの残債と延滞金を売却益で補えない(オーバーローン)リスクが小さくなる。例えオーバーローンが生じても、金額は競売より少なくなることが期待できる。

但し任意売却を成功させるには債権者である銀行を説得したり、買い手を探したりと大変な作業になるらしい。そこで任意売却の支援機構を紹介してもらった。後日、支援機構の人間の会うことになった。
 

1ヶ月後、私は銀行から任意売却の承諾を得る事ができた。ようやく光が見えてきた気がした。

(これでゼロからやり直せる)

私はそう思った。

しかし、買い手を募集する為に不動産価値の見積りを始めた頃からまた雲行きが怪しくなった。
 

「田中さんのご自宅ですが、土地と建物を合わせてこのくらいの金額になります。」

不動産仲介業者の見積りを見て、私は唖然とした。
 

「えっ!? たったの 3,000万円ですか!? まだ築12年程度ですよ!」
 

「はい。田中さんの足元を見ているわけではなく、これくらいがこの地域の現在の相場になります。」
 

「相場と言われても困る、、まだ住宅ローンは 4,400万円も残っているんだ。これでは任意売却で家が売れたとしても大赤字じゃ無いか!」

思わず強い口調になってしまった… すると不動産仲介業者は見積りの根拠を冷静に話し出した。
 

「まず、建物。こちらは政府が定めた減価償却の基準が適用されます。田中さんのご自宅のような木造住宅の場合、20年が減価償却の期間。つまり法律上は築20年で建物の価値はゼロという事になります。しかし流石に20年で住めなくなるという訳ではありませんし、田中さんのご自宅は比較的状態が良いですから、ある程度の価値を見積っています。」

「問題は土地です。この辺りの地価は10年前頃から大きく下落しています。理由の1つ目は今の20代、30代の世代が郊外に住みたがらない事です。会社の近くに住んで通勤時間を短縮するというのが今の若い世代の価値観です。駅から徒歩7分以上離れると賃貸物件や不動産価格が下落する傾向が顕著です。田中さんの家は駅から徒歩7分どころか、自転車で15分。通常はバスで駅まで出る事になり、こう言った物件は今は全く人気がありません。」

「理由の2つ目は、人口の減少に対して住宅が過剰供給された事です。人口減少に転じてからも政府は新築住宅に補助金を支給するなど、住宅の供給が減らないような政策をしてきました。結果的に重要と供給のバランスが崩れてしまい、住宅の余りが生じていると言えます」
 
 

なんて事だ…
確かに最近駅の利用者が少し減った気がする。以前は立ち乗りが当たり前だった通勤バスも、今ではほぼ毎日座れるようになっている。数年前にバスの本数も減った。
 

理屈は分かる。理屈は分かるが、納得ができない、、。納得がいかない。

任意売却が成功しても住宅ローンが 1,300万円も残ってしまう。これから私は住んでもいない家のために1,300万円もの借金を返していかなければならないのか…。いったいマイホームとは何だったのか…
 

それから1週間、何度か不動産仲介業者、任意売却の支援機構の者と協議を重ねた。
 

「田中さん、お気持ちは重々承知しています。それに最終的な販売価格は田中さんが決めることができます。だから、4,400万円という価格を設定する事が可能です。しかし4,400万円という価格ではまず100%、買手がつかないでしょう。任意売却には期限があります。期限が切れたら競売にかけられ、3,000万円よりもっと安い値段で叩き売られてしまう。ここは悪い選択肢の中からより良いものを選ぶという冷静さが必要です。」

支援機構のスタッフが言ったこの発言に、私は折れる事にした…

結局、買い手が購入前の内覧希望する場合は積極的に受け入れるという作戦を計画し、3,200万円という価格で売り出すこととなった。
 
 

夕方の帰り道、私はいつもより遠回りをして家に帰った。間も無く出て行く事になるだろうこの住宅街が名残惜しく感じたからだ。

人間とは不思議なものだ、いつも歩いているこの通りも、もう通ることは無いと思うと新しいものを発見してしまう。

「あれ、こんなところに椿が植っていたんだな…」

「ここの街路樹はイチョウだったのか。」
 

そんな調子で歩いていると、私はあるものを見つけた。それは「売家」の看板だった。気にして歩いていると、私の家の近所には「売家」の看板を下げた家が何軒かあった。

(今日は何かあったかいものを食べよう。そうだ、鍋にしよう。)

そう思い妻に連絡を入れ、遠回りをやめて家に向かった。
 
 

翌日から、買い手に少しでも良い印象を持ってもらうため、私の家族は不用品を極力処分し、家の中を隅々まで掃除し、買い手が内覧を希望した際は私と妻が小綺麗な格好をして出迎えるという活動を続けた。

これは不動産仲介業者のアドバイスだ。どうやら元の家主の顔が見られ、かつその印象が良いほど、割高でも売れるそうだ。”ちゃんとした人が住んでいた家” という安心感が価値になるとのことだ。
 
 

3ヶ月後、
 

私の家は売れた。
 

購入したのはまだ若い20代後半のベトナム人夫婦だ。
彼らは2人とも外資系IT企業の日本法人で働いているそうだ。もともと日本に興味があり、日本語は外国人にしては堪能だ。奥さんの方は日本の大学を卒業して日本の企業に勤め、そのあと今の企業に転職。旦那さんの方はベトナムの大学を卒業後に日本の大学の大学院に進学し、今の企業に就職したそうだ。

今後も2人で働いて出来るだけ早くローンを返済する計画らしい。半年後には子供が生まれるため、ベトナムから奥さん側の両親を呼び寄せ、一緒に暮らしながら子供の面倒を数年間見てもらうらしい。そのためにもある程度広い家が欲しかったそうだ。

私が
「ここは都心から少し離れているから、通勤は少し頑張らないといけないよ」と言うと、

旦那さんは
「大丈夫、私の会社、社員みんな家で仕事する。私の上司はアムステルダム住んでる」と、笑顔とサムアップのジェスチャーで答えてくれた。
 
 

私たち家族は1ヶ月後の受け渡しに備え、アパートを探す事になった。

 
 
第七章 チャレンジ
 

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