経済小説:橋の下からこんにちわ 【第十章 名刺】
私達4人は午前7時に集合して日雇に赴き、ハローワークに戻ると立ち飲み屋で飲むという毎日を過ごしていた。それは2027年の師走を過ぎ、気がつけば2028年を迎えていた。もう妻とは暫く口をきいてなかった。
年末に子供たちと共に仙台の実家に帰省した妻は、新年を迎えても帰って来なかった。しかしそんな事はどうでも良くなっていた。
日雇いの仕事にもすっかり慣れ、私は部活や仕事に打ち込んでいた頃の、青年の気持ちになっていた。
1月の下旬、その日は鈴木さんと石田さんの都合が悪く、ヤスさんと私の2人で日雇いをしたあと、2人で飲んでいた。この日のヤスさんは何時もより元気がないように見えた。
「田中さん、ぶしつけな事を聞くけど、今後、どうしたいとかあるのかい?」
「なんだいヤスさん、ヤスさんらしくない質問をするじゃないですか。ハハハ」
「ハハハハハ、すまない、、深い意味はないよぉ、、」
「そうですなぁ、出来ればゼロからやり直したいと思っているんですよ。まぁ、今がマイナスですがね。ハハハハハ。できる事なら過去を断ち切って、、見栄や世間の常識に振り回される事なく、自分のやりたい事に正直な人生を歩みたい ですかね、、」
「つまり…人生に前向きって事で、いいんですね!?」
「あぁ、そう、いやでも、願望を言っているだけですよ。ハッハッハッ」
「田中さん、貴方なら出来るよ。貴方はまだ若い。それに健康だ。だから望む生き方、きっと出来るよ!」
「やぁ、人が悪いなぁ、ヤスさん、、そんな…」
私がそう言いかけた時、私の前に2ヶ月前の情景が蘇った
「こういうもんです。」
ヤスさんは大切にしている最後の名刺を差し出していた。両手で名刺を持ち、本当に名刺交換をするような出立だった。
「どうしたんだい、ヤスさん。ヤスさんの事なら知ってるよ。」
そう言ったが、、この時ふと、ヤスさんの経歴はあまり知らない事に気がついた。ヤスさんは自分の過去についてあまり話さなかった。
「これ、貰ってもらえませんか?」
私は驚いた、ヤスさんは他の人にも名刺を見せるが、決してあげてしまう事はない。ヤスさんにとってその名刺は宝であり、勲章であり、人生だった。
「え、冗談で言ってるんでしょ? ヤスさん、、もぉ、、」
「そんな大切なもの貰えないよ」
「いや、どうぞ貰ってください。田中さんにならこの名刺、あげちまってもイイと思ったんだ」
「それに私も、いつまでも過去に執着していてはいけないんだ」
「いや、ヤスさん、私はそんなつもりで言ったんじゃないよ、、ごめんよ、、」
ヤスさんはゆっくり首を横に振りながら
「田中さん、あなたが言ったからじゃないよ。私はあなたの希望に賭けたくなったんだ。どうか貰ってくれ」
ヤスさんの顔は真剣そのものだった。
私は名刺をいただく事にした。
その翌日から、ヤスさんは日雇いにも立ち飲み屋にも来なくなった。鈴木さんや石田さんも理由を知らなかった。
3月の末に差し掛かったころ、ヤスさんが亡くなったという連絡を受けた…