経済小説:橋の下からこんにちわ 【第五章 銀行になりたい】

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思いがけず住宅ローンの滞納という現実を突きつけられた田中。
自ら働きに出ることを決意しながらもパートにすら採用されなかった専業主婦の妻の落胆を受け止めつつ、内心は気が気ではない。

住宅ローンの破綻。多くのマイホーム所有者にとって無縁と思われていた事態は、2024年では身近になりつつあった。

住宅ローンとマイホームという文化が定着したのは戦後の高度経済成長期だ。この時代であれば、ローンを組んででもマイホームを持つという考え方は正しかった。毎年のように増加するサラリーマンの平均年収、それに追随する物価(住宅価格含む)、終身雇用が理由である。

厚生労働省の賃金構造基本統計調査(下記)をベースに話をしよう。例えば 1975年に30年ローンで家を買ったとする。1975年時点のサラリーマンの平均年収は200万円程度である。住宅価格はそれに合致した水準である。ローンを完済する30年後、2005年のサラリーマンの平均年収は500万円弱である。つまり1975年に家を買ったものは、毎年のように増えるサラリーマン年収と年功賃金によって、給料における住宅ローンの支払いは相対的に軽くなっていくのである。30年間で年収は2倍以上に増えるが、1975年に組んだローンの返済額は1975年の物価水準なのである。

 
後に家を買うほど住宅価格が上昇していくため、できるだけ若いうちに家を買うのが賢い選択となる。現在よりも金利は高かったが、それを超える所得の上昇が望めた。

それに対し2000年以降は状況が異なっている。サラリーマンの平均年収は年々減っているのだ。更に年功序列の廃止と、終身雇用は崩壊しつつある。高度経済成長を生きた親世代と比較して、家を買うことの負担が高くなっているのだ。

親の時代はローンを組んで家を買う事が賢い選択だった。だから親も子にマイホームの購入を勧める。しかし現代は親の時代と大きく状況が異なっており、親世代もその状況に気付いていないケースが多い。
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翌日、私は仕事を休んだ。銀行に行くためだ。
住宅ローンを6ヶ月滞納したら家を競売にかけるというのは余りにおかしいではないか! 少なくともこの11年間、私はローンの支払いを続けてきたのだ。家は紛れもなく私の家、マイホームなのだ。

銀行を訪れ、私のこの自信と期待はあっという間に打ち砕かれた。
住宅ローンについて、私は余りにも無知であった。

住宅ローンを滞納した場合、最初の1ヶ月〜3ヶ月は催告書や督促状が届き、滞っている返済金の支払いと滞ったことで生じる遅延損害金を払えと言われる。恐らく私の家にも届いていたのだろう。例え何年間もきちんとローンを支払っていたとしても、たった1ヶ月〜3ヶ月の遅延でこのような扱いを受けるのだ。

滞納が4ヶ月〜6ヶ月になると、契約違反として銀行から住宅ローンを分割返済する権利を剥奪される。これを”期限の利益の喪失”と呼び、この時点でローンの債務者は住宅ローンを一括で支払うことしかできなくなる。こうなったら事態は最悪だ。ほとんどの者はどんな形であれマイホームを失うことになる。

期日までにローンの一括返済ができなければ、代位弁済といって保証会社がローンの全額を銀行に支払うことになる。そして代位弁済後は保証会社から債務者に請求が届く。ここでも払えないと、すぐに競売の申立てが行われ、強制的に家を追い出される事になる。

これはあまりに理不尽な制度ではないか!? 一括で払える金が無いからローンを組むんだ。期限の利益の喪失後に一括でローンを返済した人間はいったい何人いるのだろう? だから多くの者にとって滞納4ヶ月〜6ヶ月で期限の利益の喪失をしたタイミングが、マイホームを失うタイミングとなる。
 

「田中さん、お気持ちは察しますが、こればっかりはどの銀行で同じです。疑っていらっしゃるなら向かいの赤い銀行の窓口で聞いてみてください」

ローン担当の行員は荒ぶる私に対して冷静な回答をした。その冷静さが私にそれを真実だと確信させた。私がローンを借りた銀行はメガバンクである。よく考えなくとも、そんな銀行が闇金のような法律無視の危うい行為を働くはずはない。

つまり、滞納4ヶ月〜6ヶ月で期限の利益の喪失が起こるというのは、悪徳金融のルールではなく、一般的かつ合法的な制度なのだ。
 

「田中さん、残念ですが間も無く期限の利益を喪失します。避けるためには来月分も合わせた住宅ローンの滞納金 1,050,126円 と、遅延損害金 40,278円 合わせて 1,090,404円 を明日までに支払ってください。」
 

(なんだ、100万円程度か、それなら何とかなりそうじゃないか…)
私はそう思った。そしてこう言った。

「分かりました、明日までに100万円払えば良いんですね」

行員「いえ、100万と、90,404円です」
 

(分かってるよ!)私は心でそう叫んだ。ったく、銀行員というのは数字に細かいやつだ。
 

私には根拠の無い自信があった、
 

(あんなに稼いでいたんだ。口座を漁れば100万円くらい準備できるだろう)
 

私は銀行を出て妻に電話をした。残りの貯金がいくらあるか聞くためだ。
 

そして、、
 

私の頭は真っ白になった。。
 
 

貯金は無かった。ゼロである。それどころかカードローンまで負っていた。妻によると自動車税と車検の支払いができず、止むを得ずカードローンで支払ったそうだ。総額は50万円。考えれば当たり前だ。貯金が無いから住宅ローンを滞納したのだ。

私は甘かった、というより、妻に任せずぎだった…

実は、私が元の担当にいた時から既にあまり貯金は出来ていなかったそうだ。貯金よりも子どもに沢山の習い事をさせたり、私立中学に行かせるためのお金を優先していた。私自身も節約するという気持ちはほとんど無く、毎日のように昼は同僚や顧客と800円や900円の定食を食っていた。飲み会でタクシー帰りになる日もあった。

その後、企画部に移動したことで残業代やボーナスが減り、家計は火の車になっていたそうだ。
 

これは妻が悪いんじゃない。家計に無関心だった私の責任である。正直、企画部に移動してからは給料明細を見なくなった。見ても面白く無いからだ。
 

私は家に帰ることもなく、行先もなく歩いた。12月の昼過ぎ、晴天で思いのほか暖かい。落ち込みを通り越して、私は思考停止に陥っていた。日陰をさけ、日向を歩き、ポカポカとした日差しの温もりを背中に感じる事に集中していた。
 

「まず車を売れよ」と言う者もいるだろう。しかし今乗っている中古のコンパクトカーは120万円で購入したものだ。売ったとしても 100万円 を超えるとは思えない。それに、もし家を失ったら行く先が無い…せめて車があれば雨風はしのげる…そう私は思った。
 
 

そうこうしているうちに、期限が切れた。私と私の家族は事実上、マイホームを失ったのである。
 
 

冷静に考えると住宅ローンとは銀行にとって都合の良い商売である。
住宅ローンの金利は、低金利の時代とはいえ 1%〜2%である。1%だとしても、私のように6,000万円を借りたら35年間で利息を1,000万円程度払わなくてはならない。銀行はお金を貸して35年間待つだけで1,000万円の利益が得られるのだ。

更に、住宅ローンを借りると一般的に団体信用生命保険に加入させられる。これは私が死亡した際に保険会社に残りのローンを肩代わりしてもらうための保険だ。貸した相手が死亡しても銀行は損をしない仕組みになっているのだ。しかも保険料は私のような債務者が支払わなくてはならない。

そして今回のように債務者がローンを滞納した場合、信用会社が代位弁済するので、やっぱり銀行は損をしない。

銀行が住宅ローンを貸したがるのが理解できた。絶対に損をしないからである。
 

そう考えると、私が住んでいた家はマイホームではなく銀行の賃貸物件であった。賃貸に住んで家賃を滞納すると追い出されるが、マイホームに住んで住宅ローンを滞納しても追い出されるのだ。
 

私がもし人生をやり直せるとしたら、、私は銀行になりたい…
 
 

第六章 正念場
 

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